1月9日のインターンシップコーディネータ−研修のあと、参加していた学生たちとのディスカッションの機会を得た。
ずいぶん考えさせられる機会になったので支障のない範囲で公開しておこうと思う。
こちらから投げかけたのは、「学習とは」という話。
学習は自分と世界の関わり方を変えていくこと。
それを言語化する、すなわち学生のメタレベルを上げることを意識することが大事。
その認識を持って問いを投げているか。
以下引用符内は学生の発言
昨年インターンシップに参加し、今年も関わっているが、コーディネートまでは関われていない。理解できなかった部分、自分で生かせそうな部分。これを実際に他人にいかそうとしたとき、他人が深い理解を持って自立していけるようにするためにはどういうことを意識したらいいのか。
他人に何かしてもらおうと思わない方がよいのではないか。他人に変わって欲しいと考えない。自分が変わっていけば、付き合う相手が変わる。付き合う相手のレベルが変わるかもしれないし、付き合う相手そのものが変わるかもしれない。自分を磨けるけれど、人は磨けない。磨いてやるぞと言われても大きなお世話。磨くなら、自分の硬度を上げる。人との付き合い、お互いがさらに磨かれる。本気の現場、本気でやっている大人と一緒でないと伸びようがない。
大学は実は本気の現場。先生方は本気の研究者。そこに本気で向き合えば大学の中に本気の現場がある。至る所に本気の現場がある。役割柄講義もするけれど、講義で何か教えて、みなさんを変えようとしても無理。聞いたみなさんが自分で価値があると思ったら使う。価値を感じてもらうには、自分が本気モードで自分を動かさないと無理。
おいしいご飯は並べるけれど、これを食べろとは言わない。ずっと食べない子がいても、目の前においしい料理を並べ続けることが私の仕事。
話をするときに意識していること、大事にしていることはなにか。人数、規模、目的、キャパに合わせて話し方を変えていると思う。1対1や少数で話をするとき、大事にしていることはなにか
自分が話していることはN=1と認識していること。サンプルは一つ。
私は決して正解をしゃべっていない。自分の人生は自分にとって正解と思っているけれど、そこで得たものが誰かの正解になると思っていない。
だから、「勝手に解釈してください」という感じ。
こんなふうに解釈すべきとか言い様がない。どう受け止め、どう解釈しようと、その人の問題。
作家の手を離れた小説と同じ。
それは余白があるということか。
「余白」というのはいくらか当たっているかもしれない。
例えば、今もらった問いに対して、「それって自分の中で自分なりに理屈を付けていて、そのために必要なインプットがあるとイメージしている」のかなと自分の中ではいったん受け止める。
今のような問いが出るとしたら、自分の中ではこういうつながりでこういう問いを出すんだろうな・・という問いを投げる。自分で考えてもらうための「たたき台」を出している感じかも。
隠したいことがある企業さんには、どう対応するか。
隠したいことは無理矢理聞かない。直近の利益くらいはサクッと聞くけれど。
同じ経営者の立場として聞くから聞きやすいという部分はある。
それぞれ隠したい、人に言いたくないことはなんとなくわかる。
そういうのがあるよねとわかっているから、「あるよね」というオーラを出して話している。
正義の使者みたいな態度ではしゃべらない。人には人の都合があると思っている。それはしょうがない。
論理性はすごく大事。いろんな理論に基づいて考えることもとても大事。
合理を学び、経営者の、というか人の不合理部分を理解して、そこに寄り添うことが必要だと思っている。ちゃんと合理があって初めてそこが見える。
不合理、余白の部分に寄り添うためには、自分が合理を突き詰めた上で、寄り添えること。
コンサルの仕事は、理論やフレームワーク、データを使って、合理的に突き詰める。その上で、合理より優先したいものが経営者にあれば、それを自覚してもらった上で改めて寄りそう。
合理を超えるために、合理を学ぶと思っている。
期間中や、終わっていたときに感じていたことが、この1年、2年で深度が深まっている。それだけ余白のあったインターンシップと思う。
自分にとってはそうだったけれど、他の人にはわからない。言葉の取り方、人それぞれ違う、言葉の種、芽の出方、咲き方、咲くタイミングはそれぞれ違う。
意味づけを保留してもいい。これは小樽商科大の先生の言葉だけど。現時点でのふりかえりはこのレベル。「こうかもしれないけれど、違うかも」という感じでいい。一生保留していてもいい。
終わったときにモヤモヤ、何が起こっているのか、それが大事。
投げられた答えがあるわけではなく、なんとなく見えているけれど実態がわからない。
そんぼあたりのさじ加減はどうするのか。
大学の授業でモヤモヤ、ある種の「虚」を創るために、「実」を見せる。例えばテキストは「実」。しかし、そこにたくさんの「虚」が潜んでいる。テキストに沿ってやりながらも外れている。外した部分に実は本質がある。
外した部分でやっていたのはみなさんの話。テキストが「実」だと思うと、みなさんの話が「虚」に見えるかもしれない。しかし、その「虚」が本当は「実」だというのは、学ぶ中で理解されるようになる。
そういう学び方をしてもらえるとうれしい。

そうこうするうちに、話題はどんどんそれていく。
結局は彼らの「生き方」への問いに触れることになった。
今まで人類がやってきたことがの結果として、アメリカ・イラン、オーストラリアなどで、いろんな事が起きて、いろんな事が問われ始めている。
今はチャンス。今まで思っていたことが、「あれ?」が重なって現象として起き始めている。それをどう解釈するか。
根本的なものに気づくチャンスであり、気づくために努力せざるを得なくなっている。人間が判断を外部化したらどうなるか。判断するだけの姿になったらどうか。その間のグラデーションのどこにいるかを知るために、両極端を知ることは大事。
完全に自然に溶け込む「端」と、完全に自然から隔離される「端」。完全にAIに支配される「端」と、AIと切り離されている「端」。どこにいるか知らないと、自分が不幸になる。
インターンシップも、グラデーションの中で、何を目的にして、そのためのプログラムになっているかちゃんと意識していればよい。
それは、選んだ責任ということか
選んで、意識してやっているから、その結果に対する責任がある。
そんな人間が増えたら、「ちゃんと自分たちでどうにかする世の中」になる。
誰も何もしてくれない。
認識論的に言えば、自分が認識できる範囲にしか世界はない。
自分が影響を及ぼす世界、変えられるのは自分しかない。
(以下略)
自分の存在を、社会との様々な関係性の中で理解しようとしているのが感じられる時間だった。
このような問答ができるというのは、彼らが参加したインターンシップの「隠しカリキュラム」が機能していて、今回の講座をきっかけに言語化したということだろう。
次回の講座の後にどのような話が聞けるか、今から楽しみだ。