大学等で若者の世ぷすを見る機会が多い中で、良きにつけ悪しきにつけ様々な気付きが得られる。
その一つが、「失敗」について。
「失敗」という言葉が持つニュアンスがネガティブなせいか、多くの学生が「失敗」を回避しようとするのが見て取れる。
もっと言えば、
失敗のないもっとも効率的な方法
があると信じ、それを誰かから教わろうとしている。
そこには、
世の中には定まった正解があり、そこに向かうステップを無駄なく踏むことがもっとも効率的で望ましいこと
という価値観が感じられる(もちろんこれは私の主観)。
しかし、世の中には正解がいくつもあったり、正解がどうにもわからなかったり、場合によっては正解を求めることが望ましいことではない、ということもありうる。
そのような中で、自分自身で納得できる解を求めて絵仮説検証を繰り返す、言い換えれば、「自ら知を生み出す」ということが本当はとても大事なことなのではなかろうか。
目次
その大事でとても面倒くさい取り組みからの逃げとして、理解しやすい、簡単な正解を求め、それを正当化してはいないか
という問いを大人がもっと発するべきなのかもしれない。
我々は、何らかの行動の結果が思わしくない時「失敗」という言葉を使う
しかし、仮説のある「失敗」は「仮説が棄却された」だけのことであり、予想外の「失敗」は「新たな条件の発見」である。
それはどちらも「知の創造」へのもっとも適切な道のりであり、本質的にはもっとも効率的な行為であるといえる。
本当の「失敗」は、そこからなんの改善もしなかった場合、またはそもそも何もしない場合、やったふりだけをした場合。
もっとも効率的な生き方を求めて、結果としてもっとも非効率な生き方を選んでいるという皮肉に、若いうちに気づける人はそう多くはない。
教壇に立つ身としては、たとえ嫌われようと伝え続けなくてはならないことだなと感じている。
・・と、雑感でした。